教えのやさしい解説

大白法 482号
 
無上宝聚・不求自得(むじょうほうじゅ・ふぐじとく)
 「無上宝聚不求自得」は「無上の宝聚、求(もと)めざるに自(おの)ずから得たり」と読みます。法華経信解品(しんげほん)第四の偈頌(げじゅ)の一節(いっせつ)です。
 須菩提(しゅぼだい)等の中根(ちゅうこん)の四大(しだい)声聞(しょうもん)は、先(さき)の譬喩品(ひゆほん)第三で、上根(じょうこん)の舎利弗(しゃりほつ)が成仏の記別(きべつ)を受けたのを目(ま)の当たりにし、更に「三車火宅(さんしゃかたく)の譬」の説法を聴聞(ちょうもん)して、仏の開三顕一(かいさんけんいち)の法を信解(しんげ)しました。そして、信解品の冒頭(ぼうとう)、四大声聞は跳(と)び上がって喜び、歓声(かんせい)を上げたのです。このことを、当品(とうほん)後半の偈頌(げじゅ)に、
「我等、今日(こんにち)、仏の音教(おんきょう)を聞いて、歓喜踊躍(ゆやく)して、未曽有(みぞう)なることを得たり。仏、声聞当(まさ)に作仏(さぶつ)することを得(う)べしと説きたもう。無上の宝聚、求めざるに自ずから得たり」(開結 二六三)
と説かれているのです。
この文(もん)について、天台は『法華文句(もんぐ)』に「自(みずか)ら顧(かえりみ)るに心に仏道を希望する無くして、而(しか)して今忽(たちま)ち得記(とっき)作仏(さぶつ)することを聞く、故に不求自得と云ふなり」と釈しています。二乗は小乗教に執着(しゅうちゃく)し、灰身(けしん)滅智(めつち)して小乗の解脱(げだつ)を得(え)たと思い込み、進んで崇高(すうこう)な仏の悟りを求めようとしませんでした。このため、爾前経(にぜんぎょう)では、二乗は決して成仏できないと嫌(きら)われたのです。ところが、この法華経では、諸法(しょほう)実相に約して理の一念三千が説かれ、仏の開示悟入(かいじごにゅう)の化導(けどう)によって、永(よう)不成仏の二乗も成仏できることが説かれました。このため、四大声聞は歓喜踊躍し、釈尊に感謝の心を込めて「無上宝聚不求自得」と述べたのです。
 末法御出現の日蓮大聖人は、この文を付嘱の要法(ようぼう)の上から御指南されています。すなわち「無上宝聚」とは、『御義口伝(おぎくでん)』に、
「今(いま)日蓮等の類(たぐい)の心は、無上とは南無妙法蓮華経、無上の中の極(ごく)無上なり。此(こ)の妙法を指(さ)して無上宝聚と説き玉(たま)ふなり。宝聚とは、三世の諸仏の万行(まんぎょう)万善(まんぜん)諸波羅蜜(しょはらみつ)の宝を聚(あつ)めたる南無妙法蓮華経なり」(新編一七三九)
と示されるように、三世諸仏の万行万善の功徳・善根を具足(ぐそく)した南無妙法蓮華経の御本尊をいいます。そして、「不求自得」とは、
「此(こ)の無上宝聚を辛労(しんろう)も無く行功(ぎょうく)も無く一言(いちごん)に受け取るは信心なり。不求自得とは是(これ)なり」(新編一七三九)
と示されるように、ただ信心の一念にあります。無上の宝聚である御本尊の功徳は、ひたすらなる信心の一念(いちねん)により、確かに感得(かんとく)することができることを仰せなのです。
 すなわち、『観心(かんじんの)本尊抄』に、
「釈尊の因行(いんぎょう)果徳(かとく)の二法(にほう)は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ。四大声聞の領解(りょうげ)に云はく『無上宝聚、不求自得』云云」(新編六五三)
と仰せのように、私たち末法の衆生は、爾前経で説く難行(なんぎょう)や戒律(かいりつ)、六波羅蜜(ろくはらみつ)等を修(おさ)めなくとも、それら一切の修行の意義・功徳を具(そな)えた三大秘法の御本尊を受持(じゅじ)信行することにより、煩悩(ぼんのう)充満(じゅうまん)の我が身そのままを「無上の宝聚」の当体(とうたい)と開くことができるのです。